記憶(第2話)
帰る方向が一緒だと奴は行った。
勘太郎先生がこのあとすぐに次のレッスンで時間が取れないらしく、明日もう一度参りますと彼は妙にしおらしく告げ教室を後にした。バス亭までの約十分間二人は黙ったまま並んでゆっくりと歩いていった。
バス亭に着くと丁度荻窪行きのバスがタイミングよくきた。
車内はその時間帯の割には空いていて立っている人は誰もいなかった。中央の出口のすぐ後ろの2人掛けのシートが空いていた。
ほら、あそこ空いてると彼がエスコートした。
「今日は迷惑かけちゃったかもね」
神妙に彼はそう言った。
「別にいいんじゃないの、私も今日始めて聴音のレッスンに来たんだけどさ、こんなのがなぜ音大の受験に必要なのか良くわかんないしさ。」
「うーん。音大とか受験とかが音楽するうえで必要って事自体が僕はよくわかんないんだよ。音楽って教わるもんじゃないんじゃない?だって自分自身の心の表現結果が音楽だと思うんだ。もちろんそれを表現する技術の習得は必要だと思う。ただ、それは大学に行って教わるものでもないし、大学に入ってから習得するっというのはちょっと遅すぎると思うんだよね。音楽理論や歴史その作曲家がその曲を作曲した背景を知っている必要もあるかもしれないけどさ、それって二次的なもので、決して音楽表現の根幹をなすものじゃあないと思うし・・・・」
さっきのレッスンだって音の羅列をコピーしている行為にすぎないじゃないかと彼は言う。
彼の言う事自体には彼女は諸手をあげて賛成だった。聴音という音の羅列をコピーする行為は鳴っている楽曲からその楽譜を再作成する行為であるし、楽譜自体が音楽を表現する上での設計図にすぎないと彼女は常日頃思っていたからだった。
楽譜はある意味暗号で記載した手順書のようなものだ。まったくその暗号の意味を理解しない一般人からみるとそれはおたまじゃくしがのたくっている乱数表のようなものでありさっぱり何が書いてあるのか分からないが、それを読める人間、音楽をやっている人間からすれば音楽をつくりあげる設計図になっているといっていい。
ただ、それはあくまでも設計図であって、これだけでは音楽ではない。この手順書をもとに技術力・表現力を持った音楽家が咀嚼し音に色を塗ったり艶をつけたりして自分自身の表現をその中に閉じ込めてはじめて音楽になりうるものである。
「その意見には私は賛成よ・・」
言うか言わないかのうちにバスは荻窪駅前に到着した。
降りると暑めの暖房が効いた車内とは対照的にひんやりと冷たい風がほおをなでる。
もう来週は師走なんだ。
「ねえ、晩飯一緒に食わない?俺がおごるからさあ」
いきなりフーテン君はナンパを彼女に敢行した。
「私だって予定が・・・」
ある訳ない。
一日の内、ご飯を食べる時間とお風呂と睡眠時間以外は殆どピアノにむかっているのだ。それがイヤだとか苦痛であるとかは思ったことはない。彼女にとってそれは普通に呼吸することと同じようなものだった。であるから同世代の女性のように買い物に出掛けブランド物のバッグを買うとかイケ面スターが出ている映画を観に行くいう事は皆無だった。まして恋人とデートなんて絶対にありえないのだ。恋人はおろか同性の友達だっていないのだ。そういう彼女だからこれから何かする予定がある訳がないのだ。家に帰ってももう夜なので近所の迷惑を考え音を出せないのでピアノの練習をするわけにもいかない。ただちょっとだけ見栄があった。
「あるかもしれない・・・」
かもしれないと言う最後の方は小さい声だったので彼には聞き取れなかったようだが、音楽への考え方がこんなに合う人間と会うのは初めてだったのですごく新鮮だった。
正直言って彼女は感動していた。でも男性に対しての免疫がちょっとだけ足りなっかったし、これから帰っても自分で夕飯の準備をするのも面倒だったので見た目はイヤイヤ仕方なく受け入れることにした。本音は少しいい男だなって思ったので超ラッキーと少しだけ思った、否「超ラッキー」という言葉使いは品が無いと思っていたので、心の中ではもっと違う単語でそう思ったにすぎない。
あくまで音楽としての意識を共有できる人間だから食事に付き合うんだと自分自身に言い訳をしていた。
「いいけど、遅くても10時には帰んなきゃなんないけど、それでもいい?」
本当はそんな時間制限などないのだけど。
しかし彼はもう彼女の話を全く聞いていなかった。いきなり彼女の手をつかむと強引に駅の裏側のネオンがきらめく通りに引っ張っていった
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